年老いた母の体の衰えを目の当たりにしたお墓参りと伯父宅への訪問の後、母の親しい友人の旦那様が亡くなられたとのことでわたしは告別式に出られなかったので後日母と一緒にお線香をあげにお宅にお伺いした時のことです。
藤圭子さんも苦しんだとされる網膜色素変性症とは
宇多田ヒカルさんのお母様である藤圭子さんも苦しんだとされる網膜色素変性症ってご存知でしょうか。
数千人にひとりと言われるのに藤圭子さんのお母様、お兄様、お姉様、ともに同じ病気だったそうです、遺伝性があると言われてはいますが近親者にこれだけ集中しているので宇多田ヒカルさんの光という名前も、この病気にかかることを心配して、いつまでも光を失わないでほしいという願いを込めてつけられたのだとか、、泣けます。。
網膜色素変性症とは
長い年月をかけて網膜の視細胞が退行変性していき、主に進行性夜盲、視野狭窄、羞明(まぶしい)などの症状がある3000-4000人に1人の割合で発症する難病に指定された目の病気です。遺伝性があるとされるが孤発例も多くみられるそう。
ちなみにこの遺伝形式には、
常染色体優性遺伝(常染色体上に存在する1対の遺伝子の一方に異常があれば発症する。患者の子が同疾患を発症する可能性は、男女を問わず50%)、
常染色体劣性遺伝(常染色体上に存在する1対の遺伝子両方に異常がなければ発症しない。一方の遺伝子のみに異常がある場合、症状の現れないキャリアーとなる。)、
伴性劣性遺伝(X染色体上に存在する遺伝子の異常によって起こるが、正常遺伝子が1つでもあれば発症しない疾患。女性では2つあるX染色体上の遺伝子両方に異常がなければ発症しないのに対し、男性ではX染色体が1本しかないため、遺伝子1つの異常で発症する。このため、男女の患者数に大きな差がある。)、
の3つのタイプがあるそう。
遺伝の確率
なにやら難しいですが、常染色体優性遺伝と、伴性劣性遺伝の男性に関してが遺伝の確率が高いのでしょうか、藤圭子さんの場合は、お兄様、お姉様、そして藤圭子さんと、もし藤圭子さんがこの3人兄弟だったとしたら発症率は100%、すごい確率ですので、この確率が高いふたつの遺伝形式のどちらかが運悪く100%出てしまったのでしょうか。
わたしの母の場合は、母の祖母が同じ病気を持っていたと、発症後に母の母親(つまりわたしの祖母)から聞いたと言っていました。聞いた限りだと発症しているのはいまのところこのふたりだけですので藤圭子さんよりは少し確率の低い遺伝形態なのかもしれません。
遺伝性の病気を持っていたら子供を産まないべきなのか
「(ママの)お母さんは自分の母親がこの病気を持っていたことを知っていて、遺伝する病気と知っていたのに兄ちゃんや姉ちゃんやあたしを産んだことになる。この病気のこと結婚前や妊娠前に教えてくれていたら遺伝を止められたかもしれないのに知らずにあなたたちを産んでしまった。もしあなたたち(わたしと弟)や、あなたたちの子供に症状が出てしまったらごめんね。。」
病気が発覚したころに言われた記憶があります。でもその後何回かこの病気のことを話した時、結婚前や妊娠前にもし知っていたら子供を作るのをやめたのかと言われたらあなたたちには申し訳ないけれどやめなかったかもしれない、誰もが一生なんの病気にもかからずにいられるわけはない、遺伝で受け継がれてしまう病気はほかにも世の中にいくらでもあるし、そもそも発症しないかもしれないのだから病気がわかっていてもあなたたちを産んだかもしれない、とも言っていました。
当時はまだ幼かったので、黙って聞いていて、なにをごちゃごちゃいっているのだろう・・・くらいにしか思っていなかったと思うのですが、一応しっかり母の言葉は覚えていました。でも今ならこのごちゃごちゃ言っていた気持ちがよくわかります。
高齢であるがためにいろいろなリスクにおびえて妊活に尻込みをしてしまう理由として、障害がある子供を産んでしまったら、自分の人生も変わるということもあるけれど、その生まれた子供に障害をもった人生を送らせることになってしまう、それが割と高い確率で発症すると言い渡されることになるわけですから。
藤圭子さんのように(おそらく)兄弟3人に100%の確率で発症、自分もその症状に苦しみながらも宇多田ヒカルさんを産んだ、母も自分がその病気だと妊娠前にわかっていても産んだかもしれないと最終的には言っていた、わたしもこの網膜色素変性症が自分の子供に遺伝するかもしれないと聞きつつも、それが理由で子供を作らないと決断する気持ちにはならなかったです。それは、母は苦しんだかもしれないけれど、その病気のせいでこれまでの人生が真っ暗だったわけではない、他に素晴らしいこと、楽しいことがたくさんあった、わたしや弟、甥っ子姪っ子たちとわたしの子供に命をつないでくれて、母自身も、わたしたちもみんなそれぞれ楽しみ苦しみありながらもそれなりの意義のある人生を送ってこれているのは母親がこの世に産んでくれたおかげ。もしわたしが今後発症したり、自分の子供に症状が出たりしても、わたしも子供も、そう思えるはずと思ったからです。
具体的な症状
①夜盲の後には徐々に視野狭窄があらわれる。外を歩いていると急に視界に人が飛び込んでくる、人混みで人によくぶつかる、落としたものを探すのに時間がかかる、など。
あー、母によくぶつかられました。。
②羞明(しゅうめい)(まぶしい症状)に対しては、遮眼鏡(紫外線や網膜に有害とされる青色光線をカットするもの)で対応する。
はい、いつもまぶしそうにしていて、いつもサングラスをして、部屋の中でもつばの大きなサンバイザーをかぶっていました。電気の光が目に入るのも眩しくて辛いのだそうです。
③網膜の中心にある黄斑部に病変が及ぶまでには、長い期間を有するため、末期まで視力が維持されることが多い。一般的には進行は極めて緩徐である。
これだ。。これから書こうとしているお線香の件は。。
母は確か30代後半くらいに発症したと記憶しています。そこから30余年かけて網膜の中心の黄斑部にまで病変が及んだんだわ。
治療法はまだ見つかっていない
残念ながら治療に関しては、さまざまな研究がされていますが現時点で根本的な治療法は見つかっていないとされています。数年前に治療の可能性が見つかったという記事を見た記憶もあるのですが、いま改めて調べてみてもそういった記事は出てこない、あの後うまくいかなかったのかな・・・。
自閉症スペクトラム障害が遺伝子操作で治せる可能性が見つかったとしたら、網膜色素変性症も遺伝子操作で治せるようにしてもらえたらいいのにな、と思います。
母の網膜色素変性症の症状が進行しているのを目の当たりに!
母がお線香に火をつけようとろうそくの火にお線香をかざしたのですが、あまりのことにショックを受けてしまいました。火から10cmほど離れたところにお線香を差し出しているんです。。
その、ご主人を亡くされた母の友人の方も背後に座ってわたしたちがお線香をあげる様子を見ていたので、不思議に思わせてはいけないととっさに母の肘を持って火をつけるよう補助をしたのですが、あまりの衝撃でわたしはそのあと自分もお線香をあげたときも頭の中がそのことでいっぱいでした。
普段から「目が見えなくなってきた」と口にしていたので、いつものことと思ってしまっていたのですが、母が口にするときはその症状が進行していた時だったのだと思います。
母から聞いていた網膜色素変性症の症状は、視野の中に見えない部分ができてきて、それがどんどん増えてくる、ちょっとした光もまぶしくて辛い、ということでした。だから正面を見て、例えば右側のこことここが見えない、という状態だったはずだったのですが、お線香に火をつけることができないということは、もう視野の真ん中が見えなくなってしまっているということの現れです。これでは普段の生活も辛いでしょうし、大好きな料理もできっこない、歩くのだって足腰が弱っているということもありますが、正面が見えないのであればそりゃあゆっくり一歩一歩足を差し出しながら歩かざるを得なくなるのも当然です。こんなに症状が進んでいたなんて、、それに気づいてあげられずにいたなんて、、母が不憫で、自分が情けなくて仕方がありませんでした。
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